南原千畳岩海岸(なんばらせんじょうじき)と流刑地八丈島

観光地

八丈島に来てから毎日汗をかいてエネルギーを消費しているからか、甘いものを体が欲しています、ちーぼーです。都内にいたときは、自分でチョコレートや甘いものを買うことはほぼなかったんですが、スーパーにいくと手が勝手にチョコレートをつかんでいます。

いつもガリガリ君を買うのに、パルムを買うようになりました。パルム、罪な味がします。

今回は「南原千畳海岸」に行った話と、その近くにあった「宇喜多秀家と正室の豪姫」と「流刑地として八丈島」について書きました。

南原千畳岩海岸

住所 東京都八丈島大賀郷8257

お問い合わせ 04996-2-1377(八丈観光協会)

アクセス バス停「大潟浦園地前」から徒歩約10分

駐車場 有り

八丈島が火山でできた島であることがよく分かり、大自然の壮大な力を目の当たりできる「南原千畳敷海岸」です。独特な岩でできた海岸は、八丈島でないと体験できない風景だと思います。

八丈富士は1605年の噴火を最後に火山活動を停止している休火山ですが、それ以前噴火が繰り返されていました。その時に、溶岩が海に流れ落ちて形成された溶岩台地です。岩の上を歩き回ることができ、まるで異世界に立ったかのような感覚を味わえます。

自然が作り出した、まさに自然造形美で、溶岩にはポコポコ細かい穴が空いています。ちなみに私の庭にもたくさんの溶岩が転がっています。噴火から4.500年経った今でも八丈島のいたるところで、この溶岩石を見ることができます。

黒い溶岩の台地と荒々しい海の波が自然の凄さを感じることができ、おすすめです。また、風と波が強いので海の近いほうまで行くと、思いっきり潮をかぶります。柵などもついておらず、地面がでこぼこしていて歩きづらいので気を付けてください。転ぶと溶岩石で足を切ってしまいます。

南原千畳敷からは八丈小島と、三原山を見ることができます。写真の奥に見えるのは八丈小島です。

また、夕焼けの絶景スポットとしても知られており、八丈島にいらっしゃったときは是非立ち寄っておきたい場所です。今(8月6日現在)の八丈島の日没時間がだいたい18時半ごろなので、18時くらいに行くとこの風景が見れるかもしれません。

宇喜多秀家と正室の豪姫

南原千畳敷がある南原園地内に設置されている、宇喜多秀家(うきたひでいえ)と正室の豪姫(せいしつのごうひめ)です。正室とは、高貴な人物の正式な妻を指します。仲良く並び、ひな人形みたいですよね。

なぜこの二人の像がああるのか

岡山城主宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いに敗北し、死罪は免れたものの、1606年八丈島に流罪となりました。沖を黒潮が流れ、脱出不可能と言わていた八丈島は、江戸時代を通じて1800人以上の流刑者が送られていたのです。その最初が宇喜多秀家一行でした。

34歳のとき、流人としてふたりの息子を連れ、近侍とともに13人で流されてきました。正室豪姫は同行を望んでいましたが受け入れられず、一度も八丈島を訪れることはありませんでした。

八丈島では宇喜多秀家は、苗字を浮田と改め、髪を下ろし海岸で釣りを楽しみながら過ごしたそうです。姫豪の実家から支援を受け、他の流人よりも待遇され、八丈島を所領していた源家に良く招かれ、宴を楽しんだ記録が残っています。

1616年、秀家の刑が解かれ「10万石を与えるから大名へ復帰したらどうか」との勧めを受けましたが、秀家はこれを断って八丈島に留まった、とも伝えられています。

1655年84歳で亡くなるまでの50年間を過ごしました。この当時の平均寿命は50歳ほどでしたので、とても長生きしていますよね。流刑の場所とされていますが、その後八丈島は天国と言われる所以なのかもしれません。

天下分け目の関ヶ原の合戦で、公式に八丈島に流刑になった宇喜多秀家と、案じながら金沢で暮らした豪姫の波乱の人生を象徴するシンボルなのです。この二人は仲良く、岡山城の方角を見つめています。

流刑地八丈島

江戸時代に流刑地とされていた八丈島は、1606年~1871年の間約260年の間に1800名程の流人が送り込まれてきました。伊豆七島の中でも、罪の軽重によって流される島に違いがありました。比較的罪の軽い者は大島・新島。次いで三宅島。より罪の重い者が八丈島でした。

初期には、政治犯・思想犯が流されてきていました。流人とはいえ、身分も高く、教養のあるものが多くいました。なので、島役所の取り締まりも寛大で、格別に罪人扱いをすることはありませんでした。島民も流人に対して好意を寄せ、むしろ歓迎していたようです。

流人が島に着くと、抽選で住む村を決め、預かった村々では流人とグループを作り一緒に働いていました。孤島に住む島民にとって、流人は新しい知識を持ち、江戸の様子やさまざまな地方の事情を知っていたので、新鮮な情報を聞かせてくれる珍客でもありました。

島民は流人から内地の話を聞き、宴に呼んでは江戸で流行っている歌や踊りを教えてもらい、一緒に楽しみました。流人の生活は比較的のんびりしていたようです。生活において少しの決まりはありましたが、島民の一人として生活を営み「八丈島は暮らしやすい島であった」と「公栽秘録」という本に記されています。

武家や僧侶出身の流人は、ほとんど教育を受けたことのない島人に対して、教育や学問の知識・技術を教えていたことが八丈島における教育史の始まりです。寺子屋の師匠をつとめ、島人や子供たちに教えていました。

八丈島の制度・文化・産業などについても、優れた流人たちから教えを受け、お互いの交流によって生活様式がつくられ、民謡や盆踊りの多くは流人によって伝えられてきたと言われています。八丈島の文化は流人の影響を抜きにしては考えられないほどでした。

さいごに

私は八丈島に引っ越しをするとき「流人だ!とうとう島流しかちーぼーも!」といろんな人に言われました。私は良いことしかしていないし、なんであんなに自然豊かで暖かい人達がいる八丈島が、罪人を流す場所になっていたのか不思議でした。

しかし今回この「宇喜多秀家と正室の豪姫」を見つけ、そこから八丈島の歴史や流刑地としての八丈島を調べました。

・八丈島はただ単に遠い島だったので流刑地として選ばれた

・流人と島民は仲良く暮らし、流人が八丈島の文化にはかかせない存在になっている

ということが分かりました。八丈島の人たちがみんな優しいのは、この時代からだったんだなぁと暖かい気持ちになりました。それと同時に、流人として島に送られてきた人たちは刑が解けても、八丈島に残った人が多いと書いてあり、より八丈島の良さを知ることができました。

歴史は学生のころから苦手で、調べても漢字ばかりで目がぐわぁ~んとなってしまいますが、これからは調べてまとめ、分かりやすく八丈島の歴史を今後伝えられたらなぁと思います。

コメント

  1. 匿名 より:

    八丈島の情報、いつも楽しみにしています!
    すごく分かりやすいです。
    これからもよろしくお願いします❗

  2. 稲垣正義 より:

    ちーぼー八丈島のいろいろのこと有難う 友人の新婚旅行の地です
    いたるところに溶岩ならちーぼーの家庭菜園もサツマイモがどうでしょうか
    さつまいもは荒れ地が一番いいそうですよ 肥料をやると茎ばかりが太くなるそうですうちも荒れ地で栽培したら大きなさつまいもができました

  3. こういち より:

    今でも浮田さんって人住んでいるのかな。
    宇喜多秀家の子孫。

    絶海の孤島は流刑地としてはピッタリだったんでしょうけど、まぁよく見つけたもんだ。どんな船でこの荒波を渡っていったのでしょうか…

    でも上陸したら、生きるにはとてもいい場所だったんでしょうね。今でもリゾート地と言われるくらいですから。

    そんな場所に自ら流れ着いたちーぼーさんはいい選択をできたのかな。

    • chibooop より:

      浮田さんというお名前はまだ見かけてないです!
      沖山さん、浅沼さん、持丸さん、奥山さんっていうお名前の方がたくさんいらっしゃいます!
      お店の名前もその名前が多くて、どこがどこだかわからなくなる時があります。